脱原発・放射能

利権によって動かない組織、我々の力で変えて行こう

チェルノブイリの真実(1)

2012-05-12 13:35:10 | 原発・放射能

チェルノブイリの真実(1)

緊急事態を収束する上で政府が優先したのは、
情報操作と政治的なダメージへの対処であった。

周辺の住民たちや60マイル(96km)離れた人口260万人のキエフの街に
住む人々のパニックを避けるために、
事故後10日間のニュースの報道規制を行った。

ほとんど情報のない中で、
多くの人々は自分たちを守るすべを知らなかった。

事故後4日目の1986年のメーデーの祝日には、
市の職員たちは健康被害については否定し、
いつものようにパレードや屋外のイベントを遂行するように命じた。

政府の安全アピールのために、発育期の子供たちの多くがその日に被曝した。
マスクをしていた市民は警察官にそれを外すように言われた。

日本でもまったく同じことが行われいる。

福島第一原発に近い場所で被爆を余儀なくされてしまった
井戸川克隆・双葉町長。国・東電への怒りは相当なものだ。

  私は野田首相に『双葉郡民は国民だと思っていますか?』と聞いたけど、
  国はアメリカにSPEEDIのデータを先に知らせて、
  国民にはSPEEDIのデータを提供しなかった。
  今もって、双葉町は、SPEEDIのデータは来ていません。
  あの情報が入っていたら、仙台方面に逃げていますよ。
  あるいは、ベントの連絡もなかった。
  それから国、東電は、止める、冷やす、閉じ込めると言い張って、
  絶対安全だと言ってきた結果がこれで、我々は住む所も追われてしまった。
  放射能のために学校も病院も職場も全て奪われ崩壊しているのです。
  私は脱毛していますし、毎日鼻血が出ています。
  この前、東京のある病院に被曝しているので
    血液検査をしてもらえますかとお願いしたら、
  いや、調べられないと断られましたよ。
  我々は、被曝までさせられて、その対策もないし、
    明確な検査もない。


チェルノブイリ事故を伝える情報は、数多くあるが
真実を捻じ曲げられた情報もある。

この情報により、本当の真実はなんだったのか、
史上最悪の原発事故が起きた日本で、
私たちにおころうとしていることはどんなことなのか、
考えるきっかけになればと思う。 (何回かにわけて連載)

 

過酷な任務・ある女性のチェルノブイリでの体験

Natalia Manzurova and Cathie SuIlivan
ナタリア・マンズロヴァとキャシー・サリヴァン
翻訳:後藤健太郎・大羽正律・大羽比早子 

事故発生三日後のチェルノブイリからの放射性物質の雲の分布

上図はヨーロッパ1525マイル(約2400kim)地図で、その上空を放射性の雲が覆っている。明度によって明るいほうから毎時0.1R以下、毎時0.1R、毎時0.1R以上で塗り分けてある。胸部へのX線が一回で7.5mremなので被曝量でいうと、X線の12回弱から120回分に相当する。下図はアメリカ合衆国の地図と比べたもの。

 

チェルノブイリのリクィデーター(訳注: 清算人 / 除染作業員)たちに捧ぐ

彼らの健康や命が犠牲になり、人類はより悲惨な悲劇を回避することができたのである。

 

HARD

DUTY

A WOMAN'S

EXPERIENCE AT CHERNOBYL

過酷な任務
ある女性のチェルノブイリでの体験(日本語版)
Natalia Manzurova and Cathie Sullivan
ナタリア・マンズロヴァとキャシー・サリヴァン
翻訳:後藤健太郎・大羽正律・大羽比早子

 

共に

  冷戦が終結して11年目の2002年、核技術を応用した核兵器や原子力の安全性を危惧するロシアと米国女性たちの、合衆国政府基金によるプログラムで、私はナタリア・ボリソヴナ・マンズロヴァとパートナーでした。

  ユーラシア社会変革行動協会(The Institute for Social Renewal and Action in Eurasia (ISAR))が2002年と2003年に私たちのスポンサーになり、ナタリアと私はロシアで出会いました。 その時はチェルノブイリの事故や、ウラル山脈にあるナタリアの故郷のマヤークにある冷戦当時には秘密だったプルトニウムの生産工場で、健康障害を起こした労働者たちに会いました。旅の後半では、米国で核兵器生産に従事してやはり健康障害を起こした労働者たちとも会いました。米国の映画会社ビジョナリーズが、米国の公共テレビのために私たちの共同プロジェクトをミニ・ドキュメンタリーにしました。

  さらに2004年には、チェルノブイリから60マイルのウクライナのキエフでナタリアと再会し、事故に関連して社会的、医学的に深刻な打撃を受けた各地のコミュニティーに、国連によって設けられたウクライナ・コミュニティー・センターをサポートする団体、FOCCUS(Friends of Chernobyl Centers, United States )と一緒に旅をしました。

FOCCUSとの旅の途上でナタリアは、チェルノブイリの核災害を軽減するために戦った何万というソビエト市民(リクィデーター)の一人としての経験を私たちに語ってくれました。

キャシー・サリヴァン 2006年ニューメキシコ州テスケにて
Cathie Sullivan, Tesuque, New Mexico, February, 2006

©Copyright, 2006 Natalia Borisovna Manzurova & Cathie L. Sullivan

  

リクィデーターとは?

  1986年のチェルノブイリ原子力発電所の事故に関心のある人たちによく訊かれるのは、なぜ60万人から75万人のソ連の兵士や除染作業をした市民たちを「リクィデーター(訳注:清算人 / 除染作業員)」と呼ぶのかということだ。私の友人のナタリア・ボリソヴナ・マンズロヴァがそれについて詳しく答えてくれる。彼女は4年半、ソ連政府の命令で「事故による重大事を清算」した数十万人の一人である。その作業は言いかえれば、「恥ずべき証拠を隠滅」するためだったので「リクィデーター(清算人 / 除染作業員)」と呼ばれるようになったのだ。

  チェルノブイリ事故による病気や、それに続く1990年から1991年のソ連邦崩壊による試練は、数十万人のリクィデーターたちに共通する経験である。ナタリアの声は彼女がチェルノブイリで友達になった人々の声を反映している。その中には若くして亡くなった人や、彼女のように病気を抱えて生きている人もいる。

  ナタリアはジョセフ・スターリンの独裁時代に生まれ、現在はロシア連邦内のチェリャビンスク地域にある、モスクワから1000マイル(1600キロ)東にあるウラル山脈の中で育った。彼女の生まれ故郷のオザースクとそこにあったプルトニウムの生産工場マヤークは、1991年に政府がその存在を認め地図に工場と町が表示されるまで、極秘のソ連核兵器複合体の一部であった。

 ソ連時代のプロパガンダを最近になって絵葉書にしたもの。上:「愛すべきスターリン– 国家的幸福」(1934)下:「さあ、持ち上げましょう!」(1944)

 ナタリアと彼女の両親はマヤークで働いていた。1940年代にスターリンの命令によって秘密の原子爆弾の工場を建てるために、モスクワの東1000マイルにあるウラル山脈の中で松の森林を伐採する仕事が、彼女の親たちの仕事だった。その工場は米国が日本で原子爆弾を使用したことに対抗して、スターリンによって計画されたものだった。*

左から右に:ナタリア、彼女の母親(Zoya Ivanova)、妹

*多くの歴史家の見解によれば、スターリンの恐れには確たる理由があった。米国が広島と長崎に原子爆弾を落とした主な動機は、ヨーロッパの分割についての戦後交渉の前に、スターリンを威嚇するためだったと言われている。

 

ドイツのロシア侵略のさい、ナチスはロシアのレジスタンス戦士をこの木につるした。チェルノブイリからの被曝によりまわりの松の森林が枯れてしまった時、森林は伐採された。この木だけが追悼記念のために残された。残念ながら後に倒れてしまった。

 

パート1:チェルノブイリの事故

  1986年に爆発した原子炉は、現在のウクライナ国内にあるチェルノブイリ原子力発電所にある4基の発電機のひとつである。計画されていたあと2基の原子炉が建設されていれば、チェルノブイリはヨーロッパで最大の原子力発電所になっていただろう。しかしチェルノブイリの約束された未来は1986年4月26日午前1時23分に終了した。その時、不安定で危険な状態になっていた原子炉をシャットダウンするための「スクラム」ボタンを、4号炉のコントロール・ルーム・エンジニアが押し遅れたのだ。その後4秒間でパワーが原子炉の稼動最大値の100倍になり、温度が摂氏7000度に上がった。一分以内に1200トンの溶融した核燃料と他の物質が混ざったものが形成された。*

  それに続く二つの爆発で原子炉の巨大な1000トンの「生態系保護」のカバーが吹き上げられ、原子炉内にある1661本の銅製冷却用水パイプが外れた。基部が怒った犬の逆毛のように突き出した。放射性燃料は空に飛び散り、原子炉からはイオン化した放射性物質が環境に放出された。燃え続けるガスによる50フィートの炎が放射性物質の拡散を悪化させ、その後10日間にわたりチェルノブイリからの放射性物質は北半球の全ての国に到達し、全ヨーロッパの3分の2を少なからず汚染した。

 

*工場の責任者たちは、原子炉は爆発しないようにできていると信じていて、マニュアルには低い出力時における不安定さについては書かれていなかった。最終的に人が原子炉のある部屋に送られ、実際に原子炉が爆発したことが確認された。送られた人たちは「放射線熱傷」を起こし、すぐに病気になった。そして数日後に急性放射性障害で死亡した。 

  隣接した建物の屋根は爆発で飛んできたものに引火して火事になった。消防士たちは高濃度の放射線の中で1、2分しか働けなかった。後に彼らの多くはこの被曝によって死亡した。

  政府の対応はあまりに貧弱で遅く、批判に対する恐れから機能不全になっていた。事件直後10日間のニュース規制により、多くの人々が被曝から身を守るために必要な情報を手にすることができなかった。しかし平常であることを印象づけるため、海外の科学者の忠告を無視して、政府は1986年11月に残り3基の原子炉の稼働を再開した。1997年の火事でそのうちの1基は停止を余儀なくされ、残りの2基も国際的な圧力により2000年には停止された。

  しかしチェルノブイリの問題は1986年にはもちろんのこと、事故に関連して保障を受け取った人の数が(2000年の時点で)700万人にものぼったという見積もりを国連が発表した2002年になっても片付いてはいなかった。

 

前線のリクィデーターたち
(ナタリア・マンズロヴァの話)

消防士たち 原子炉が大気にさらされた、事故の最初の10日間に作業した多くの消防士たちやヘリコプターのパイロットたちは、死亡したり病気になったりしました。多くの場合、致命的な被曝は、高濃度の放射線領域から離れるよう警告する計器がなかったために起こりました。消防士たちは原子炉から飛び散った、燃える黒鉛や核燃料で火のついた近くの3号炉によじ登りました。とてつもなく高濃度の被曝環境で、燃えているものをシャベルですくったのです。彼らは数週間または数ヶ月以内に苦痛に喘ぎながら亡くなりました。ある消防士の死体は燃えている物に挟まれて、2度と取り出すことができませんでした。また鉛の棺桶に入れられてモスクワのミティノ墓地に埋葬された消防士たちもいます。彼らもチェルノブイリの最も栄誉あるヒーローたちです。*

 

ヘリコプターのパイロットたち

  数十人のヘリコプターのパイロットたちが、被曝から身を守ると信じてウォッカを飲みながら、コンクリート、鉛、砂や他の物質5000トンを落としましたが、原子炉の炉心の場所を間違えました。これにより熱がこもり、砂と鉛を放射能汚染し、2度目の爆発を誘発し、霧状になった鉛と砂を含む放射性の雲は上空に舞い上がり、5月1日と2日に恒例のメーデーを祝っていたキエフ市に降り注ぎました。事故当時には、パイロットたちが炉心を遮蔽するのに成功したと思われていました。恐ろしい間違いが判ったのは、しばらくたってからでした。

*2マイル(約3km)しか離れていないプリピャチからの消防士たちは、チェルノブイリでの防火訓練を一度も行ったことがなかった。

 

このヘリコプターはクレーンに羽根がひっかかり墜落した。ヘリコプターはパイロットを被曝から守るために鉛の板が運転席の下に置かれ、さらに鉛や砂、コンクリートを運んでいたため、それらの重さで降下していた。

  数百回に及ぶヘリコプターの飛行中に、一台は燃えている原子炉の中に落ち、一台が近くに墜落しました。ガンマ線による被曝からパイロットを守るため運転席の下には鉛の板が敷かれ、それが余分な重量を与えていたのです。ヘリコプターの乗員のための記念碑が墜落場所に建てられ、モスクワにはチェルノブイリのパイロットのために英雄的な銅像や記念碑がつくられました。ほとんどのパイロットたちは急性放射性障害によって亡くなりました。

 

モスクワにあるチェルノブイリのパイロットのための記念碑

 

鉱夫たち

  事故後の緊迫した数日間では、残りの炉心が建物のコンクリートの床を溶かして地下水にいたる、「チャイナシンドローム」が危惧されていました。建物の基礎を安定させるためのコンクリートを流せるようにするため、ウクライナの鉱夫たちは主にハンドツールだけで原子炉の地下にトンネルを掘りました。すでに爆発や上空から落とされた多量の鉛や砂によって損傷している構造物を壊さないようにするため、地面を揺らす恐れのあるような機器は使用できなかったのです。多くの鉱夫たちは放射線防護が不適切だったため死亡しましたが、その犠牲によりチェルノブイリは「チャイナシンドローム」を避けることができたのだと思います。

 

囚人たち

  一時期、特別な鉱夫たちのグループが住んでいるホステルの近くに、私は住んでいたことがあります。彼らは囚人たちで、危険の高い放射線地区で働けば罪を軽減すると言われていました。科学者たちは原子炉のある部屋の状態をモニターするために、原子炉と蒸気タービン室の間の壁に穴を開けたかったのです。彼らは囚人たちにその作業を頼みました。

  私が彼らに線量計を付けようとしたら、そんなものは大事ではないと言われ、放射能の危険性についても彼らには言うなと言われました。それでも私は言いましたが。

  熱爆発を避けるため、ドリルを冷やす水の代わりに化学的な冷却材が使われました。その化学物質には毒性があり、放射能と同時に浴びるといっそうひどくなるというものでした。ドリルの操作員を見ると様子がおかしく、中枢神経に支障を起こしているのではないかと心配でした。

 

兵隊たち*

  兵隊たちは、原子炉建屋に隣接するホールに破壊され散乱している放射性物質に汚染された蒸気タービンを片付けるように言われました。原子炉の中を巡回する水が、核分裂の熱で温められて発生した蒸気によってタービンは回されます。この機器は非常に放射能が高く、兵士たちはタービンのある部屋に一分づつしか入れず、数秒間働いて出てこなければなりませんでした。

*1986年5月に到着した予備兵たちのことは、見過ごされてきた。彼らの任務に関する記録がなかったため、彼らの病状がチェルノブイリに関係するということを明示することができなかったのだ。米国政府が核兵器生産に携わる労働者たちの健康データに対して行ったように、ゴルバチョフ大統領は全てのチェルノブイリの健康データを極秘扱いにした。(CS)

 

政府の失敗 (キャシー)

  緊急事態を収束する上で政府が優先したのは、情報操作と政治的なダメージへの対処であった。周辺の住民たちや60マイル(96km)離れた人口260万人のキエフの街に住む人々のパニックを避けるために、10日間のニュースのブラックアウトは必要だったのだ、と後に弁解している。ほとんど情報のない中で、多くの人々は自分たちを守るすべを知らなかった。2マイル(3km)離れたプリピャチでは50万人が、そして最も被害の大きかったベラルーシの27の街と2697の村では、1990年までに合計200万人が放射能に曝された。**

  ニュースのブラックアウトにより、初期の段階で放射性ヨウ素の危険性について認識していた人はほとんどおらず、それが子供たちの健康被害に影響を与えた。4年以内に甲状腺ガンにかかる子供たちがウクライナ、ベラルーシ、西ロシアで急激に増加し、20年後の今日も新たに増え続けている。

  1986年のメーデーの祝日は事後発生後4日目にあたっていた。そのころにはキエフの人々はチェルノブイリの発電所が爆発した、という噂を聞いていた。しかし市の職員たちは健康被害については否定し、

** David R. Marples, 'Chernobyl's Lengthening Shadow', Bulletin of the Atomic Scientists, (Sept. 1993) pp.38-43

いつものようにパレードや屋外のイベントを遂行するように命じた。発育期にあってより敏感な子供たちの多くがその日に被曝した。マスクをしていた市民は警察官にそれを外すように言われた。

(続く)


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